創業者の先祖が明治の初め広島に根を下した地は「広島市観音村沖新開」と呼ばれ、家が八軒しかなかったと言っておりました。
明治初期、海上輸送が主流だった頃、天満川の雁木(がんぎ)(舟着き場・石階段)の目印として、
雁木に近い橘の敷地にクスノキが植えられました。
1945年(昭和20年)8月6日8時15分、広島に世界で初めて原子爆弾が落とされました。
その時、創業者の父は天満川で近所の人達と満潮で川へ上がってくる海水から塩を取る作業をしていて、半身大火傷を負いました。
創業者 橘 義夫は、原爆が落とされてから二十日後に戦地から復員して、一面焼け野原で似島が見えるようになった広島駅に着き、
原爆ドームの前を通って爆風で傾いた自宅まで、クスノキを目印に歩いて帰ったと言いました。
創業者は車が好きで、これからは馬車や荷車に代わり車で物を運ぶ時代だとトラックを買い、
1953年(昭和28年)『ご縁・感謝・信頼』を創業の志として、妻ヒロ子とともに生まれ育った地に、
被爆クスノキのある運送店「橘運送店」を創業しました。
荷物の往来が多いというだけで、知り合いもツテもないまま宇品港へ行き、港湾荷役の請負業をされていた北恵 好照氏に
声をかけていただいた出会いのご縁から、鋼材を運搬する仕事を始めました。
トラックへの積込手段のクレーンもない時代、北恵氏とともに積込方法や積込道具を工夫して作ったと言いました。
昭和30年代、JR三江線の式敷(しきじき)駅へレールを運搬していた時の事です。
久地を通り布野へ渡る吊り橋が積荷の重量で落ちる危険があると判断した創業者は、先に北恵氏に歩いて渡ってもらい、
その後ゆっくりトラックで無事に渡りきり、帰りには農家で畳の芯にするワラの束を買い、
広島の畳屋さんへ売っていたと北恵氏から伺いました。
初代トラックの写真も北恵氏撮影によるものです。
良き出会いの有難いご縁に感謝しています。
[左上]「たちばな」と平仮名で書いた2台目のトラック
[左下]初代クレーン車
創業者 橘 義夫(中央)とその父が「Tachibana」と書いた初代トラック
~広島県廿日市市 速谷神社にて 1953年(昭和28年)~
明治初期、海上輸送が主流だった頃、広島市の天満川の雁木(がんぎ)(舟着き場・石階段)の目印として、雁木に近い橘の敷地にクスノキが植えられました。
昭和初期、創業者は子供の頃雁木から引き潮で砂地が出た天満川に降りて野球をしたり、カブトガニの尻尾を持って水切り(水面飛ばし投げ)で遊んだと言っておりました。
太平洋戦争中に三菱重工ができ、川を掘り下げたためカブトガニも上がって来なくなったと聞いております。
1945年(昭和20年)8月6日8時15分、広島に世界で初めて原子爆弾が落とされ、当時推定樹齢90年のクスノキも被爆しました。
創業者 橘 義夫は戦後復員して広島駅から一面焼け野が原の市内を自宅のクスノキを目指して帰ったと言っておりました。
そして間もなく橘運送店を創業しました。
原爆ドームに面した側のクスノキの太い枝も焼け落ち、年月が経ち、残りの枝が伸びてきたと聞いています。
2004年(平成16年)に南観音橋が掛かり道路拡張のため車庫の一部土地を道路用地として出し、道路側のクスノキの根も枝も切り、車庫が狭くなり、大型特殊クレーンや大型トラックがクスノキの近くを通るようになり弱ってきました。
車庫の中央にあるクスノキの伐採の話も出ましたが、先祖が植えた被爆クスノキを残し、次世代に繋ぐ事に決めました。
クスノキにとっては環境が厳しい状態です。
樹木医に診ていただいたり、広田造園さんに樹勢改良・土壌改良工事を行っていただいたり、できる限りを尽くしております。
(参考:『広島市の木』はクスノキです)